ひよこ、すずりにむかいて

呼吸は残らないけど文字は残る

命と愛情の位置関係(ペットロスについて考えた事)

命と愛情の位置関係って全然違うなぁと思った。

 

その日の朝、子猫の動画を見て、私はめちゃくちゃ泣いていた。

動画自体は幸せなもので、よかったねぇ…とウインドウを閉じたが、

今年の頭に死んだ猫のことを思い出して

一日中ブルーになってしまった。

(元から精神的に弱いのもあって、

悲しいから猫を思い出したのか、その逆かは分からない)

幸せな思い出を思い出すたびに、

病気にしてしまったのに、良い思い(綺麗に思い出す事)だけしていいのか迷った。

 

その日の夜色々あって、知り合いと食事に行った。

偶然、その方もペットを亡くしてすぐだったようで、

そういった話題になって、

家に帰ってから、というか今も、ずっと考えている。

 

 

ペットが病気になると、家で注射を打たなければならない事がある。

私の家もそれがあった。私自身、そこそこうまく打てるくらいにはなった。

 

当然(私の家の)猫は嫌がった。

室内猫にとって全ての世界である家族が、

痛い事をしてくる対象になる。

 

でも打たないと体はどんどん弱ってくるし、

注射を怖いからという理由で打たない家族にはなついたままになる。

(私の家では父がそれだった)

 

私は、猫が亡くなったと知らされたときに、ちょっとだけほっとした。

毎日苦しんでいる猫を見るのは、複雑な気持ちだった。

 

もちろん死んでほしくなんかないけど、

苦しくて食事もとれなくて家族も信用できなくて、病院もストレスになってて、

この子は本当に生きていて幸せなんだろうか?とずっと考えていた。

(もちろん生きているのは良いことだけど、他の要素が多すぎて、幸せ、という状態に出来ているかが不安だった)

それと、病気にしてしまった責任と、今出来る事はなにかを常に考えていた。

(ペットってなんだ、とも考えていた)

 

話しが少しそれたけど、

猫は治療を嫌がる、でもそれを人間はやめられない、

どっちが猫の為になっているか分からない、

というのは、ちょっとしたパニックだったな、と思った。

 

ペットへの愛情と、命の持ち主という自負が、織り交ざっていると思う。

 

可愛がる、という意味なら、当然苦痛は与えたくない。

 

注射をしてでも生かしておきたいのは、ペットの命を預かっているからだと思う。

自分の力で命を手放すのは恐ろしい事だ。

一度火を消したら、何をしても二度とつけることは出来ない。

 

それに、ほんの少しの「飼い主として好かれていたい」……というより、

「猫が飼い主を好きといえる状態でいさせたい」という気持ちもある。

 

命をどうするか預かっていること、ここちよい状態で居させたいこと、

自分の状態、気持ち、環境、

全部ばらばらの事だけど、いっぺんに考えなくてはいけないときもある。

 

正解は分からないけど、命と愛情の位置関係は、違うところにあるな、と思った。

 

猫が生きているのが幸せだにゃーって教えてくれたら何も迷わないんだけどなぁ

 

生かしてあげるのが本当の愛情、という可能性をあまり加味していませんでしたが、

一日中全部の可能性を書いてしまいそうなので、とりあえず。