ひよこ、すずりにむかいて

呼吸は残らないけど文字は残る

220回夜を越えて ②幼少期からの家庭から去年末まで

私の家は、幸せの象徴のような家だった。

 

住みやすい家の一軒家、週末二人で出かける仲の良い両親、

稼ぎの良い国立大学出身の父親、明るくやさしい完璧な母、

まじめで読書好きな長女のわたし、おとなしい弟、ペットの猫。

 

幼少期からそうだった。

母方の祖母からも「あんたみたいに恵まれている子いないよ」

と言われていた。

 

私は、両親の言葉に時たまざっくり傷つきながらも、

これくらいはまあ誰でも、とか、親も人間だし、とか、

なにより、親は絶対に正しいものだと思っていた。

親だから。

そして、親がそこそこ好きだった。

(オタク的に言うと、どんなことを言われても、

「まあうちのお母さんツンデレだからなー!」と処理していた。)

 

だんだん一家がおかしくなりはじめたのは、

たぶん私が国立大学を目指している最中に、ぽっきり折れてからだった。

これが高校二年生の時。

 

小学校の頃から、主に父親に「お前は国立に行って幸せになるんだ」と言われていた。

母も、それを聞いて一緒ににこにこしていた。

両親ともに期待されていると感じていた。

私は、勉強をがんばった。

 

現在の話になるが、親とはなれた今も

「そんなに良い子してると疲れない?」

と聞かれることがある。

 

けど、良い子のつもりはなくて、

幼稚園児の私が身に着けた処世術だった。

世間とは家庭だった。

こうしないと、家の中で生き延びられなかった。

 

……もどって、

そんなこんなで、がんばって入った高校をやめた。

勉強についていけなくなって、怖くて通えなくなった。

実際にやめるときは、

「MちゃんとMちゃんともっと一緒に居たかったなあ」

「図書室がない生活つらいなー」

とかぼんやり考えていた。

 

この頃の記憶はあまりない。

 

そして精神科に通いだし(結構むちゃくちゃな病院も何軒かあって)、

統合失調症の病名がついた。

 

半年位家でひたすら眠る生活を送って、周りの同い年においていかれないように

通信制高校へ通って、時たまバイトをして、AOを受け、大学が決まった。

 

私の抑うつ状態(いわゆるうつ)は良くなったり悪くなったりを繰り返していた。

大学一年はなんとか人並みにこなした。

二年生からまた体調が悪くなってきた。

 

だらだら学費だけ払って、留年が決まって、

取り戻すのも難しい状態になって、辞めた。

 

そしてしばらくしてまたバイトの生活が始まる。

 

体調はべらぼうに悪かった。

けど、頭がさえて、家で一人でいるのもつらかった。

 

母が「大学辞めたんだから仕事しなさいよ」と繰り返し言うのもあって、

レストランのバイトをはじめた。

 

なぜ母がそう言うかというと、

「人に娘の状態が恥ずかしくて言えない」からだった。

 

私は母の自慢だったように思う。

 

母と同じ小学校、中学校、バイト先、大学、習い事、

同じ服、友達のような親子……。

今思い返すと、ちょっと引く。

 

母は私に依存していた。

私の人生は母の人生だった。

 

そしてたぶん、私も母に依存していたように思う。

 

次へ続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

220回夜を越えて ①親が人の家と違うと気付く

 毒親育ちでございます。一言目からあれですが。

この220日間、そして21年間、一番大きいことが、それを認識したことでした。

 

前回更新した日が9月末でしたね。

簡単に言うとあれから、

家出繰り返す(不本意)※のちに詳細→入院→家を離れた生活始まる、

という流れでございます。

 

説明しよう!不本意なる家出とは!

・・・。

ある日からぽつりぽつりと、家に帰れなくなりました。

 

昼でも夜でも、近くても遠くても、

帰り道に体がものすごく重くなったり、過呼吸になったり、

時間稼ぎにしかならないと分かっているのに彼氏と泊まって家から逃げたり、

家に帰れるときは頓服の精神安定剤を飲むのが当たり前になってきていました。

 

精神科自体は高校一年生の時から通っていて、病名は統合失調症になっていました。

(幻覚幻聴はなく、先生に聞いたら、そういうのもある、と。

先生は住んでる県でも有名な先生で、私もとても信頼しています。)

 

だから、その病気が悪さしているんだ、と思っていました。

や、まあそれもたぶん少しはあるんだけど。

 

その頃の変化はなんだろう、と考えると

小学校からの友人とはじめて両親について話したことでした。

 

きっかけはひょんな一言です。

(飲み屋、友人3人と話しているとき)

私「親の気分で怒られるときってさあ」

友人A「ないけど」

友人B「うちもないなぁ」

友人C「わたしも」

 

小さいときからほんの少しずつ思っていたことが、この時確信に変わりました。

 

うちの親、人の家と違うんだ。

 

長くなるので一区切りします。

 

 

 

 

 

 

うってかわって・ブログタイトル変更

前回の更新から220日経っていました。

ひゃーこわこわ

 

久しぶりに開いてみたら

「タイトルだっさくっどセンス無っ」

と思ってしまったので、

ブログタイトルを変えたいと思います。

 

しかし過去の私が消えてしまうのもなんか悲しいので

タイトルをここに貼っておきます

 

9999個の物とそれにまつわる話

 

うわっ字ぃでっかタイトルだっさくっ 以下略

 

 

はたしてまたここに書きに来るのでしょうか、どのくらい続くでしょうか、

もしかして将来的には極彩色のお姉さんになって、

毎日「お店に来てネ☆うっふん」なんて書くかもしれない

 

そんなときはまあそんな

未来のことなんてわかんないすからね

 

うーんでも極彩ねーさんになるなら男装の麗人になりたい……

 

全然話変わるけど、うってかわって、って

なんかスピッツの曲名みたい

(完全にさわって・変わって)

今まさに愛も花もない夜を越えてるところでございます……

ひよこ亭未明でございます……

 

この220日間のことを次の記事に書こうと思います

いまにね

 

ではではひとまず

 

チューリップの絵

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すっかり忘れてたんですけど、

小学二年生の時、いままでの人生で一回だけ、

絵が入賞したことがあるんです。

 

小学校の一・二年生がみんなで公園に行って、チューリップの絵を描いて、先生が全員分コンクールに提出するのですが、

 

何故だか私の絵が入賞しました。

 

何賞だったか忘れてしまったのですが、十人に一人の賞だったのは覚えています。

 

お父さんとお母さんにそれを伝えた時、

すごいじゃん!!!

と言われ、とっさに、

でも十人に一人の賞だよ、

と言ったら、お母さんががっかりしていたのが忘れられません。

お父さんは褒めてくれたけど。

 

賞にたしか20色くらいのクレヨンを貰いました。

けど、どこにいったんだろう。

 

使ったような、使ってないような、とってあるような、捨てちゃったような…

 

 

何故入賞したか今考えると、

他の子は、真ん中に一本、ドン!とチューリップを描いた子が多かったと思います。

 

わたしはいつも何が一番か決められないし、

情報量が多いのが好き(なんだかほっとする)から、

上にあげた写真のように、たくさんチューリップを描きました。

 

絵を評価されたのはあれが最初で最後です。

まぐれだったのかなぁ…笑

 

でも少し誇らしい思い出です。

 

コピーしたものがいまも家の階段に貼ってあります…隣は弟が描いたお父さんの日の絵。

 

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物を語る

物語の語源ってなんでしょうか。


実は調べても小難しくてよく分からなかったんです。



わたしの部屋は、とにかく物が多い。


広さと物の数が絶対にあっていない。

しかも片付けも苦手。


全てのものに、全ての物が出す一つの雰囲気に、愛着を感じてしまって、どれも欠かすことが出来なくて、物を捨てるときはいつもノスタルジックで悲しい気分になります。


3歳からいろんなものが増えてはたまに減るわたしの部屋。


もしかしたらいつか、もしかしたら近いうちに、別れが来てしまうかもしれない。


そう思ったら居ても立っても居られず、

ブログにせめて爪痕を残したい、と思ったんです。


紹介できるのはきっとほんの一部だけど、

大切なものを、紹介していきたいと思います。



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↑とはいえどこからいつきたか忘れてしまったものも多数…