ひよこ、すずりにむかいて

呼吸は残らないけど文字は残る

深淵に立つ

メモ帳を開いて、小説を書き出そうとしている。

 

さっきミュージックアプリで、

マイケルジャクソンを初めてちゃんと聴いた。

 

どっちも、元から好きだと予感していたものだ。

今、すこしずつ好きになり始めている。

 

この二つがこれから人生を支配する可能性も無きにしも非ず。

 

ほぼ初対面だけど、どちらかに一生かけても良いと思っている。

 

ここは深淵のすみっこなのか、それとももう真ん中に居るのかもしれない。

それなら、深淵って抜けやすいものなんじゃないかな。意外と。

 

いまざっと調べたら、深淵って、

ただの場所じゃなくて水の深いところも表すんだって。

なるほど、居心地が良いわけだ。

 

良い感じに助走がついたので、メモ帳の白い海と対峙してきます。

何も居ないから恐怖を感じる白い海。

見えないものがいる、というか、すべてがそのもの。

 

ではでは。

 

 

26歳(またはそれ以上)漫画家デビュー狙いの人へ捧ぐ

 

www.weblio.jp

 

漫画の奨励賞のサイトを見た。

 

奨励賞の意味を調べた。

 

「今後への期待や激励を込め」……。

 

そのサイトの見ると、他にも二十代後半の人はいた。

三十代後半の人もちらほら居た。

 

私には今、読みかけの本がある。

 

「小説家になる方法(著:清水義範)」

という本だ。

 

私は、小説家になりたい、と思っている。

 

そして、それが許される年齢にいる。

 

 

先程挙げた本に、

「作者は読者のなれの果て」

という題の章がある。

 

私が小説家になりたい理由はまさにそれだ。

文章の持つ力が好きで好きでたまらないからだ。

 

この賞に応募している人たちもきっと、

漫画が好きで好きでたまらないのだと思う。

 

でもそれって、本当だろうか。

 

この応募した人、受賞した人ですら、

漫画を好きで居続けられている人は

どのくらい居るのだろう、と思う。

 

この記事を書くきっかけになった人(2015年に26歳)の

ペンネームを検索しても、受賞作以外何の情報も出てこない。

 

職業として成り立たないと、

世間の目は冷たい。

 

(当時)26歳のデビュー前の漫画家さんは、今どうしているだろうか。

 

今も漫画が好きだろうか。

 

私はいつまで小説家になりたいと思えるだろうか。

 

(小説家になりたいというより、

書いたものがきちんと残せる人になりたい。)

 

いつまで好きで居られるだろうか。

 

私は書きたい。許される限り文字や文章と繋がりたい。

そして人を救いたい。いつかそうしてもらったように。

221回目の夜-はじめて、ひとりバーに行く-

この前、

家庭などについて3つほど記事を書いたわけでございますが……

 

あの夜はなかなか素敵な夜でした。

忘れないうちに書き留めておこうと思います。

 

 

あの日の私はとてもやさぐれていました。

 

同棲している彼氏がバイトから帰宅したとき、

「じゃあおれ、友達のところ泊まりに行くから」

と、出て行ってしまいました。

 

その件については元からいろいろあったり、

晩御飯はなににしようかな、とか、

食後は今日届いたお茶を取っておいて一緒に飲もうかな、とか

まあ私も期待を募らせすぎたところはあるのですが、

 

そんなこんなで、終電あと、私は一人になってしまいました。

 

寝ようにもなかなか眠れず、体力があまっていたので、

 

「よっしゃ!一人でバーデビューしちゃおうかな!」

 

と、ほぼ深夜テンションの勢いで、

 

化粧をして、暖かい中ダウンコートを着て

(夜道、シルエットが女性すぎないように)

家を出ました。

 

(女性の皆様、深夜に歩くのはできるだけ控えましょう。)

 

この町に引っ越してきてからちょうど一ヶ月くらい、

深夜に町を歩くのは初めてで、

ものすごい不良になったようでどきどきしました。

 

駅前は、明かりはついているものの静まり返っていて、

人はものすごくたまにすれ違うだけでした。

何故だかおじいちゃんが多かったかな。

 

バーの前に着きました。

 

閉店一時間前くらいでしたが、もう看板はclosedになっていました。

 

どうしようかな、と思って、

スマートフォンでこのあたりのバーを検索すると、

もう二軒ほどあり、

 

そのうちの、

「お酒に詳しくなくても、好みの味を伝えるとお勧めを出してくれる」

というバーが気になり、

徒歩十分くらいだったのもあり、

お店に電話をかけました。

 

電話は10コールくらいでつながりました。

 

「まだやっていますか?」

と聞くと、

「やってますよ」

と、男の人の声が返ってきたので、

向かうことにしました。

 

 

線路沿いを歩いていると、

真っ黒い猫が少し前を歩いていました。

 

「ねこ、ねこ」

と声をかけると、こちらを振り向き足を止め、

しばらく見つめあいました。

 

猫は一度、

「にゃあ」

と鳴きました。

 

そして猫は、えさをもらえないと分かると

マンションの間の細い道の中に

消えていきました。

 

猫が完全に見えなくなったあと、

再びバーへの道を一人歩きました。

 

その約五分後、

スマートフォンの地図に入力したのに

お店が見つからず、

しばらくぐるぐる歩いていると、

やっと見つけました。

 

店の前は少しだけ階段になっていて、

ほんのりあかりが外へ漏れています。

 

どきどきしながらドアを押しました。

 

「いらっしゃいませ」

おそらく電話の声の主でした。

 

カウンターの一番手前に、

恐る恐る座りました。

 

奥のほうには男女が二組、

カウンターの中には

かっちりした格好の店員さん(マスター?)が

数名いたと思います。

 

壁にはギターやあすすめのお料理が書いてあって、

緊張もあってきょろきょろしてしまいました。

 

落ち着かないでいると、

しばらくしてマスター(だと思う)が

メニューを持ってきてくれました。

 

メニューの下のほうに

「載っていないものもあります、お好みをお伝えください」

といったことが書いてあったので、

そうしよう、と思い

 

しかしカウンターの向こうで

お客さんと話しているマスターをなかなか呼べず、

しばらくメニューを見て時間をつぶしました。

 

「お決まりですか」

と、マスターが私の前に来て言ったので、

「すみません、詳しくなくて、おすすめのにしたいのですが」

と返しました。

「どんなものが好きですか」

「甘くて、変わった味の、強めのをください」

「変わった味ですか」

パクチーとかラム肉とかが好きなんです」

というと、少し笑われました。(いい意味で)

 

しばらくして、

円柱型の低いグラスに大きな氷がひとつ、

透き通った深い色のお酒が来ました。

 

「カクテルではないのですが、どうぞ」

 

そういってマスターは、先程話していたお客さんのほうへ戻っていきました。

 

おそるおそる口をつけると、

希望通り飲んだことのない味でした。

 

好みの味だけれど、

これはなんなのか、度数はどのくらいなのかが分からず、

ほんの数ミリでくらくらするような気がしました。

 

こんなに酔っ払ったことないよお、困ったなあ、

飲みきれるかなあ、と思いつつ、

一緒に出されたナッツをつまみながら、

黙々とちびちびと飲んでいました。

 

しばらくしてマスターが、私のほうへ戻ってきました。

 

「明日はお休みなんですか?」

「あ、いえ、在宅ワークなので(便利な言い訳)、

ほとんどいつでも休みみたいなものです」

「そうなんですか」

「これ、なんてお酒ですか?」

 

やっと聞けた!……。

 

「これは、イエーガーマイスターというハーブリキュールです」

「あ、一回飲んでみたかったんです、嬉しいです」

 

失礼じゃないだろうかと思いつつも、瓶を見せてもらいました。

(こっそり度数をチェック…)

35度と書いてありました。

 

思ったよりは度数低い…!と分かると安心して、

酔いが醒めてきました。

 

しばらくマスターとお話をして、

(音楽の話、一度聞いてみたかった「どうしてバーに勤めているのか」など)

 

飲み終わり、閉店も近いので、

お会計を済ませて、ふたたび外へ出ました。

 

できるだけ明るく広い道を通り、

居酒屋から出てくるサラリーマンを見つつ、

家に着きました。

 

そしてパソコンをつけ、

この前の記事を書いたわけでございます。

 

 

くれぐれも夜道にはお気をつけて。

 

危ないのも分かってるけど、

どうしても一度やってみたかったので

やってしまったぜ!というお話でした。

 

 

 

 

 

 

220回夜を越えて ③毒親と気付いて。去年末から現在まで

そして、①に書いた不本意家出が始まる。

9999stories.hatenablog.com

 

帰りたい気持ちはあるのに家に帰れなくなって、

精神科の先生に泣きついたところ、入院が決まった。

 

診察室から仕事中の母に電話をいれた。

「あ、そう」と少し驚いた声が返ってきた。

 

入院まで数日あったが、家には帰れなかった。

友達の家に泊めてもらったりしていた。

 

着替えを取りに帰ったら、母と鉢合わせした。

母は憔悴していた。

「おかあさんが悪いの?おかあさんが嫌い?出ていけばいい?離婚すればいい?」と言われ、どうしていいか分からなかった。

うん、とも、いいえ、とも言えなかった。

ペットの猫の病院の時間が近く、母は家を出て行った。

私は久々の家でしばらく死んだ(自分の部屋で過呼吸)あと、

逃げるように家を出た。

 

(このころ街中で倒れて救急車のお世話になった。

救急隊のおじさんに「精神病なのに乗ってすみません、痛くもないのにすみません」と謝ったら、

「いいんだよ、助けるためにあるからね」と言ってくれたので、号泣してしまった)

 

一瞬だけ、ウィークリーマンションに住んだ。

家に帰らないよりは、と、お金は母が出してくれた。

 

母とうまくいかないから出て行くのに、死にかけているのに、

「ねえ、もっと家からちかいところないの?」

「おかあさんさみしい」

「お父さんのためにご飯作るのめんどうだな」

と言っていた。

それに対しても私は、ごめんなさいごめんなさい悪い娘で……と

夜中思い出しては泣いていた。

 

 

そして、バレンタインデーからホワイトデーまで入院。

 

病名が変わった。

統合失調症から、ADHDに変わった。

 

そして、入院中に父と話し合いをして、

家族会議(という名の夫婦喧嘩)をして、

家を出て生活しています。

 

家を出たのが約一ヶ月前です。

父の提案で、彼氏と同棲しています。

それも父としてどうかと思うけど……

 

私は少し性格が変わりました。

よくもわるくも、怒りというものを覚えました。

 

母には引越しの日に「引越ししました」とラインしてから返信がないので

それっきりです。

 

そして今日に至る。

 

またたぶん愚痴こぼすけど、ゆるしてね。

21年分なんだもん。

 

では、ひとくぎり。

220回夜を越えて ②幼少期からの家庭から去年末まで

私の家は、幸せの象徴のような家だった。

 

住みやすい家の一軒家、週末二人で出かける仲の良い両親、

稼ぎの良い国立大学出身の父親、明るくやさしい完璧な母、

まじめで読書好きな長女のわたし、おとなしい弟、ペットの猫。

 

幼少期からそうだった。

母方の祖母からも「あんたみたいに恵まれている子いないよ」

と言われていた。

 

私は、両親の言葉に時たまざっくり傷つきながらも、

これくらいはまあ誰でも、とか、親も人間だし、とか、

なにより、親は絶対に正しいものだと思っていた。

親だから。

そして、親がそこそこ好きだった。

(オタク的に言うと、どんなことを言われても、

「まあうちのお母さんツンデレだからなー!」と処理していた。)

 

だんだん一家がおかしくなりはじめたのは、

たぶん私が国立大学を目指している最中に、ぽっきり折れてからだった。

これが高校二年生の時。

 

小学校の頃から、主に父親に「お前は国立に行って幸せになるんだ」と言われていた。

母も、それを聞いて一緒ににこにこしていた。

両親ともに期待されていると感じていた。

私は、勉強をがんばった。

 

現在の話になるが、親とはなれた今も

「そんなに良い子してると疲れない?」

と聞かれることがある。

 

けど、良い子のつもりはなくて、

幼稚園児の私が身に着けた処世術だった。

世間とは家庭だった。

こうしないと、家の中で生き延びられなかった。

 

……もどって、

そんなこんなで、がんばって入った高校をやめた。

勉強についていけなくなって、怖くて通えなくなった。

実際にやめるときは、

「MちゃんとMちゃんともっと一緒に居たかったなあ」

「図書室がない生活つらいなー」

とかぼんやり考えていた。

 

この頃の記憶はあまりない。

 

そして精神科に通いだし(結構むちゃくちゃな病院も何軒かあって)、

統合失調症の病名がついた。

 

半年位家でひたすら眠る生活を送って、周りの同い年においていかれないように

通信制高校へ通って、時たまバイトをして、AOを受け、大学が決まった。

 

私の抑うつ状態(いわゆるうつ)は良くなったり悪くなったりを繰り返していた。

大学一年はなんとか人並みにこなした。

二年生からまた体調が悪くなってきた。

 

だらだら学費だけ払って、留年が決まって、

取り戻すのも難しい状態になって、辞めた。

 

そしてしばらくしてまたバイトの生活が始まる。

 

体調はべらぼうに悪かった。

けど、頭がさえて、家で一人でいるのもつらかった。

 

母が「大学辞めたんだから仕事しなさいよ」と繰り返し言うのもあって、

レストランのバイトをはじめた。

 

なぜ母がそう言うかというと、

「人に娘の状態が恥ずかしくて言えない」からだった。

 

私は母の自慢だったように思う。

 

母と同じ小学校、中学校、バイト先、大学、習い事、

同じ服、友達のような親子……。

今思い返すと、ちょっと引く。

 

母は私に依存していた。

私の人生は母の人生だった。

 

そしてたぶん、私も母に依存していたように思う。

 

次へ続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

220回夜を越えて ①親が人の家と違うと気付く

 毒親育ちでございます。一言目からあれですが。

この220日間、そして21年間、一番大きいことが、それを認識したことでした。

 

前回更新した日が9月末でしたね。

簡単に言うとあれから、

家出繰り返す(不本意)※のちに詳細→入院→家を離れた生活始まる、

という流れでございます。

 

説明しよう!不本意なる家出とは!

・・・。

ある日からぽつりぽつりと、家に帰れなくなりました。

 

昼でも夜でも、近くても遠くても、

帰り道に体がものすごく重くなったり、過呼吸になったり、

時間稼ぎにしかならないと分かっているのに彼氏と泊まって家から逃げたり、

家に帰れるときは頓服の精神安定剤を飲むのが当たり前になってきていました。

 

精神科自体は高校一年生の時から通っていて、病名は統合失調症になっていました。

(幻覚幻聴はなく、先生に聞いたら、そういうのもある、と。

先生は住んでる県でも有名な先生で、私もとても信頼しています。)

 

だから、その病気が悪さしているんだ、と思っていました。

や、まあそれもたぶん少しはあるんだけど。

 

その頃の変化はなんだろう、と考えると

小学校からの友人とはじめて両親について話したことでした。

 

きっかけはひょんな一言です。

(飲み屋、友人3人と話しているとき)

私「親の気分で怒られるときってさあ」

友人A「ないけど」

友人B「うちもないなぁ」

友人C「わたしも」

 

小さいときからほんの少しずつ思っていたことが、この時確信に変わりました。

 

うちの親、人の家と違うんだ。

 

長くなるので一区切りします。

 

 

 

 

 

 

うってかわって・ブログタイトル変更

前回の更新から220日経っていました。

ひゃーこわこわ

 

久しぶりに開いてみたら

「タイトルだっさくっどセンス無っ」

と思ってしまったので、

ブログタイトルを変えたいと思います。

 

しかし過去の私が消えてしまうのもなんか悲しいので

タイトルをここに貼っておきます

 

9999個の物とそれにまつわる話

 

うわっ字ぃでっかタイトルだっさくっ 以下略

 

 

はたしてまたここに書きに来るのでしょうか、どのくらい続くでしょうか、

もしかして将来的には極彩色のお姉さんになって、

毎日「お店に来てネ☆うっふん」なんて書くかもしれない

 

そんなときはまあそんな

未来のことなんてわかんないすからね

 

うーんでも極彩ねーさんになるなら男装の麗人になりたい……

 

全然話変わるけど、うってかわって、って

なんかスピッツの曲名みたい

(完全にさわって・変わって)

今まさに愛も花もない夜を越えてるところでございます……

ひよこ亭未明でございます……

 

この220日間のことを次の記事に書こうと思います

いまにね

 

ではではひとまず